第41回朝日アマ将棋名人戦県大会の開催場所変更

県連より、連絡がありました。御確認ください。

訃報

元荘内支部支部長 小山寛治さんが20日逝去されました。
23日午後6時半より通夜
24日10時より葬儀
会場 千石町 セレモニーホール酒田

原田寛明さん優勝!!

第54回赤旗名人戦山形県大会
支部会員の原田寛明さん優勝です。
おめでとうございます。

竹内淇洲八段

竹内淇洲八段(丑松)(1877年6月26日-1947年3月24日)
父伊蔵は31才で亡くなり、2才から祖父伊右衛門に育てられた。 祖父伊右衛門は種痘を庄内地方に普及させた人物で、将棋好きで自宅に好棋家を集めていた。明治30年頃に伊右衛門は将棋駒を制作したが、金竜、真竜の書家が書いた物には満足せず、松浦謙吉、市原谷邨にも書かせ、最後には淇洲が書き鳥海黄楊で数組駒を作った。

淇洲は囲碁も強く県下一で、剣道も高段者で自宅に道場があり、書道、篆刻などの才能も持っていた。関根金次郎13世名人、木村義雄14世名人、大崎熊雄八段に印章を彫っていた。大変な負けず嫌いで自転車が地方で乗られるようになった明治中期に、人に隠れて小屋で密かに練習して、知人を驚かせたという逸話も残っている。

淇洲は大正7年3月に当時の実力者井上義雄八段を平香交じりで2番負かした。淇洲を師と仰ぐ大崎熊雄が七段に昇段したので、その披露将棋会を盛大に開くことになり、是非淇洲先生に上京してほしいということで、淇洲が出かけることとなった。土居七段(当時)と席上対局やるはずだったが、土居七段が回避するので、井上八段に変更し指すことになったのである。大崎は井上門下であるが、四段当時から酒田に来て淇洲の門を叩き、角香交じり数十局指してもらい棋力を養成していた。大崎は淇洲を生涯の師と仰いで畏怖していたようだ。香落ち戦は3月17日に新橋和合亭で行われ、夕方指し掛けとなり、翌日に国民新聞社の民友社三階で指し継ぎ再び指し掛けとなり、4日目にやっと終局した。平手戦は東京日日新聞社貴賓室で対局、相掛かり戦となり97手で淇洲が勝利し、八段に推挙された。その後持病に苦しみ中央に出ることはなく、昭和初期には将棋との縁が絶たれていた。

昭和7年には酒田将棋研究会が結成され淇洲は会長職に就いた。研究会には小学生の土岐田勝弘少年も参加しており、「勝ちゃ、勝ちゃ」といって可愛がったようだ。淇洲と土岐田は遠い親戚関係で昭和9年小学校5年生の土岐田少年を木村義雄名人に紹介状を書いて名人宅に赴かせた。この時名人は「これからの棋士はただ将棋が強いだけではやっていけない。まず学問をしっかり身につけてそれから己の道を選んだほうがよい」と話した。当時の社会情勢と棋界の現状を判断し、また辛苦をなめ尽くした自己の体験からそう語ったのだろうか。

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竹内淇洲八段

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10月以降の最新版日程表を掲載致します。
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